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Message
メッセージ

Shinya
Iseri

代表取締役社長

変わらないために、
変わらないといけない。

訪問看護事業設立へ向け、踏み出した一歩。

弊社は平成23年9月、神戸市垂水区と明石を跨ぐ明舞団地にある小さなテナントで訪問看護事務所に喫茶店を併設させる形で現管理者の笠間律子が事業をスタートさせました。 私がクリオに出会ったのは設立から6年目の頃です。
当時私は訪問看護事業設立へ向け2年間で訪問看護現場と経営を学ばせてもらえる場を探していました。2年後には起業のため退職すると履歴書に記載していたため、どこの会社も面接さえしてもらえない状況。そんな中、面接の機会を作ってくれたのがクリオでした。
その面接の場で、笠間はチームが持つ可能性について語ってくれたのを覚えています。目の見えない子供達が象の絵を描くといった例え話を通して「1人で出来ることには限界がある。一人一人の持つ力を最大限引き出し、それらを掛け合わせる環境があれば、あらゆる困難や課題を越えていける。」といった内容でした。

設立から10年以上が経過した今、弊社は約100名のスタッフを抱える会社となりました。
これまでの軌跡を振り返ってみても弊社は「チーム」が生み出す可能性をもって、ここまで歩んできた会社であると自負しております。令和3年に株式譲渡が完了し、笠間よりクリオのバトンを受けました。前代表の笠間には現在も管理者兼訪問看護師として在籍してもらっています。

私たちが大切にしてきた「らしさに寄り添い、らしくを支える」訪問看護をいつまでも変わらず提供し続けたい。

2030年、十分な終末期ケアが受けられない看取り難民が全国に47万人発生すると言われています。 サービスを必要とする方へ十分なサービスを供給できない未来が来るかもしれません。
そのような中で、私たちがチームを持ってまず実現するべきことは、看取り難民をこの地域に作らないことです。

そしてそれだけではなく、私たちが大切にしてきた「らしさに寄り添い、らしくを支える」訪問看護を5年後10年後さらにその先もずっと変わらず提供し続けることであると考えています。 そのためにも、充実したマンパワーの確保、教育体制の整備、訪問に付随する業務の効率化等これからも様々な課題解決が求められます。
一方で、あくまでもそれらは手段であり目的では無いということを忘れてはいけないと思います。例えば、様々な分野でICT化が進み、無駄を省き効率良くすることが流行りのこの時代ではありますが、効率化の先にあるものが何かを私たちは見失いたくありません。私たちが行う訪問看護はお一人お一人の人生に向き合う仕事でもあり、それは時に非効率的なものでもあります。

その非効率な人との関わりこそ私たちが大切にしてきた訪問看護であるように思っています。
私たちが目指すものとは、そのような人と人との関わりに丁寧に時間をかけて大切にするということ。大切にしてきたものが変わらないために、これからの社会的課題と向き合いながら変わる必要があるんです。

人生を振り返った時に「この仕事を選んでよかった」と思えるための「今」を過ごしてほしい。

私たちはこの仕事を通して人の最期に関わる中で、人はいつか必ず最期を迎えるという事と、その最期の瞬間はいつ訪れるのかは誰にもわからない事、そして人生は一度きりであるという事の3つの事実にふと気づかされる瞬間があります。

そんな事当たり前のことじゃないかと思われるかもしれませんが、その当たり前で大切な事を私たちは時々忘れてしまうことがあるのではないかと思うんです。 まるで明日が必ず約束されているような感覚で今日を過ごしたり、もっと言えば数時間後、数分後が約束されているような感覚で「今」を過ごしていないでしょうか。

「今、この瞬間」を丁寧に精一杯生きる事。
ここで働く従業員には仕事・プライベートを含めそのような豊かな時間を重ねて欲しい。 そのためにも、なぜこの道を志すのか・なぜこの道を志したのか、その原点に立ち返る機会を大切にしていきたいと考えています。

いつか人生を振り返った時に「この仕事を選んでよかった」「この仲間と仕事ができてよかった」と思える「今」を過ごして欲しいですし、そのような時間を重ねることが出来る職場環境でありたい。 そしてそのような「人」「想い」「志」から生まれるサービスをご利用者の元へ届けたいと考えております。

Toshiki
Imagawa

取締役副社長

今ある当たり前を、
さらにアップデートさせる。

子供の頃からの夢はボートレーサー(競艇選手)

私には小学校低学年の頃からボートレーサー(競艇選手)になるという夢がありました。 しかし高校1年生の時にソフトボールが目に直撃してしまい、視力が低下しました。 ボートレーサーは視力が0.8以上なければ受験できないので、もうボートレーサーにはなれないんだとかなり落ち込みましたね。

私が理学療法士になろうと思ったきっかけは、部活で靭帯を怪我してしまい、リハビリに通うことになった時です。 今までは、ボートレーサーというプレイヤー側になることを目標にしていましたが、プレイヤーの近くで支える仕事もあるんだと興味を持ち、理学療法士になることを決意しました。

理学療法士になり4年が経過した頃、居酒屋でアマチュアのボートレーサーの方と偶然出会い、「次の試験からレーシック手術を受けた方でも受験できるようになる」と教えてもらったんです。 高校生の頃に諦めるしかなかった夢をもう一度追いかけ始めました。 しかし次の試験は3ヶ月後、受験の適正体重は57kg、競技をする上でのベスト体重は51kg。 当時の私の体重は69kgでした。

3ヶ月後の試験までに51kgまで体重を落とせなかった場合は、もうボートレーサーになることは諦めると心に決め、最終的には47kgまで落とすことに成功しました。 何度も貧血で倒れましたが、夢のために必死でしたね。 その試験には不合格になってしまったので、2年頑張ってプロになれなければ諦めることを決意しました。

クリオと出会ったのは試験に3回不合格となり、4回目の試験を受けると決心した直後のことでした。それまでの1年間はボートレーサーになることだけを考え、仕事もせず、ただひたすら夢を追いかけていました。 しかし自信のあった3回目の試験が不合格になった時、環境を変えるため地元から離れた神戸で非常勤での勤務を決めました。

私の夢を理解してくださったのがクリオでした。

仕事をする以外はボートレーサーとしての勉強に時間を使いたかったため、家から1番近いところに面接に行きました。 それがクリオです。 面接では「私はボートレーサーになりたいです。夢が叶ったらやめます。」と伝えました。 1時間以上はボートレーサーのことについて話しましたね。
そんなわがままな条件、夢を理解してくれたのがクリオの笠間さん、井芹さんだったんです。 井芹さんとは訪問で同行させていただいた時に車内でお互いの夢を熱く、熱く語り合っていました。

できることは全てやり、持っているものを全て出し切りましたが、4回目の試験でも夢は叶いませんでした。 自分の中でも最後の試験と思い臨んだ試験であり、後悔なく夢を諦めることができたのは笠間さん、井芹さんとの出会いがあったからです。
不合格だったことを井芹さんに報告すると「やったぁ」と言われたことは今でも忘れられません。 想像もしていなかった言葉でしたが、私自身言ってもらえて1番嬉しい言葉でした。

当たり前がこれからも当たり前であるために。

私たちは高齢化が進み十分な終末期ケアが受けられない方が増えたとしても、最低限この地域にお住まいの方には、これまでの日常を提供し続けたいと考えています。

会社規模が大きくなることで、利用者様に対するサービスの向上、スタッフには休みを増やしたりなど、社内外も大きく変えていく。 仲間が増えることで、より多くの利用者様に対するサービスを向上させることができる。 仲間が増えることで、家庭も大切にでき、より働きやすい環境を整えることができる。
利用者様、社内ともに「今ある当たり前を、さらにアップデートさせる」ことが私たちの理念です。

人を支えたいという想いを持っている方をいつでもお待ちしています。
私達と一緒に未来を支えていきましょう。

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